アメリカが日本を植民地にしなかった理由【幕末編】ペリーとハリスの目的

アメリカ 日本 植民地にしなかった理由

以前の記事: 日本が植民地にならなかった5つの理由 なぜ?簡単に説明 では、なぜ日本が長い歴史において一度も植民地にならなかったかについて考察しました。今回の記事では、幕末の日本とアメリカとの関係性に焦点を当てます。

※イギリスに関してはこちらの記事をご参照ください。→ イギリスが日本を植民地にしなかった理由【幕末 薩英戦争 編】

ペリー以前のアメリカの来航

日本とアメリカが大きく接触した最初の出来事は、1837年(天保8年)のモリソン号事件でした。日本人漂流漁民7名を乗せたアメリカ船モリソン号が江戸湾に入ろうとしていたところ、イギリス軍艦と勘違いした浦賀奉行所が砲撃を行ったという事件です。

その後、1846年(弘化3年)に東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航して通商を求めますが、これも幕府に拒否されます。

ペリー以前の幕府は外国船に対して例外なく強気な態度を示し、長崎への回航を要求していたようです。

ペリー来航の目的と、その背景

ペリーは黒船に乗って日本にやってくる前から、幕府の外国船に対する強気な対応を知っていました。つまり、最初からこの対応を打ち破ってやろうという野心を持っていたことになります。そこまでの決意を固めて日本に来航したのには、確固たる目的がありました。

当時のアメリカでは空前のゴールドラッシュに加え、産業革命も進んで経済活動が活発になっていました。さらに領土が西海外にまで拡大していため、さらに西(アメリカ側から見た場合の)へ影響力を拡大したいとも考えていました。このような考えの元、すでに清国とは不平条約である望厦条約を締結しており、綿の輸出を目論んでいたのです。清国へ向かう際の中継地として、アメリカにとって、日本の港は大変魅力的でした。

また、当時は世界中で捕鯨産業が最盛期を迎えており、北太平洋から日本沿岸は欧米諸国にとって注目される漁場となっていました。少し話は逸れますが、アメリカに渡った最初の日本人として知られるジョン万次郎を救助したのも、アメリカの捕鯨船です。そのくらい当時の日本沖では、外国船による捕鯨が盛んだったのです。したがって、安全確保や食料と薪水の確保のために日本の港を自由に使いたいというのは、外国の捕鯨船共通の願いでもありました。

このようにペリーの目的は、どちらかといえば日本を開国させること自体ではなく、日本の港を自由に使えるようにすることでした。

日米和親条約、鎖国の終焉

アメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーが黒船艦隊4隻を率いて浦賀に来航したのは、1853年(嘉永6年)のことでした。アメリカ大統領の親書を幕府に渡して交渉することが目的なら、浦賀ではなく長崎に来航した方が良かったのでは(?)と考えてしまいますが、江戸に近い浦賀に来航することによって幕府に圧力をかけ、交渉を有利に進めたかったようです。黒船の空砲での脅しも、これが目的だったのでしょう。

黒船の来航を知った幕府側はペリーに長崎へ行くように促しますが、結局ペリーの威圧的な態度に負け、浦賀で大統領の親書を受け取ってしまいます。その後もペリーは態度を変えることはありませんでしたが、老中・阿部正弘は「翌年に回答する」と一旦ペリーを退去させます。

約束通り翌年の1854年1月、軍艦9隻を率いたペリーが江戸湾に帰ってきました。そうして、ついに3月3日に「日米和親条約」が締結されました。日米和親条約の主な内容は下記の通りです。

・アメリカ船に水・食料・燃料などを供給すること

・下田と函館を開港

・下田にアメリカ領事を駐在させること

・片務的最恵国待遇

日米和親条約は不平等条約として知られていますが、その理由は「片務的最恵国待遇」にあります。「最恵国待遇」とは、通商・関税・航海などの事項において、いずれかの国に与える最も有利な待遇を他の対象国にも与えるというものです。現在も世界貿易機関(WTO)の協定の基本原則のひとつになっています。しかし日米和親条約には「最恵国待遇」の前に「片務的」がついているので、「双方の国」ではなく、日本がアメリカに対して「一方的」に最も有利な待遇をしなけらばならない、という条件になるのです。

こうして、アメリカと日米和親条約を結んだのを皮切りに、イギリス、オランダ、ロシアとも同様の条約を結ぶことになり、日本の鎖国体制は終焉を迎えます。

ハリスと結んだ日米修好通商条約

その後、老中・阿部正弘は「貿易で日本を豊かな国にするべきだ」という考えの元、既にオランダと結んでいた「日蘭和親条約」に、貿易の条項を追加します。

さて、ペリーと幕府が結んだ「日米和親条約」にも、貿易の条項がありませんでした。アメリカの総領事ハリスは幕府がオランダと貿易の条約を結んだことを知ると、当然のようにこれを要求しました。「日米和親条約」に盛り込まれた「最恵国待遇」の効果が、ここで発揮されるわけです。

ハリスが「日米修好通商条約」で要求したのは、主に下記の内容でした。

・日米和親条約で定めた開港地の下田と函館以外にも開港地を増やすこと

・自由貿易(貿易量や価格を幕府が決めるのではなく、売り手と買い手の間で自由に交渉する貿易)

・アメリカ人の居留地

当時、イギリスとフランスが手を組んで中国に植民地を築こうと、アロー戦争を仕掛けていました。ハリスはこれに目を付け、「日本も同じ目に合うに違いない。しかしアメリカと貿易を始めれば、ヨーロッパの列強が日本へ侵攻することはない」と交渉を始めます。阿部正弘の後任、老中・堀田正睦は危機を感じ、交渉に前向きな反応を示します。

しかし、強硬な攘夷論者であった孝明天皇は、これを許可しませんでした。そこで、大老・井伊直弼は、天皇の許可を得ないままハリスと「日米修好通商条約」を締結します。日米和親条約から4年後の1858年のことでした。

そうして日米和親条約の際と同様に、アメリカに続き、改めてオランダと、続いてロシア・イギリス・フランスとも修好通商条約を結びます。これらは「安政の五ヵ国条約」と呼ばれ、さらに2年後の1860年に井伊直弼が暗殺される「桜田門外の変」の原因の一つにもなります。

海外貿易で変化したこと

「日米修好通商条約」によって、幕府は函館に加え、横浜・長崎・新潟・神戸の計5港での自由貿易を認めました(下田は横浜開港の半年後に閉鎖)。また、入港する船が少ない新潟を除く4港の周囲に居留地を設け、商館として用いる建物の購入や建設も認めます。

そうして、アメリカをはじめ5ヵ国と日本との貿易が開始します。

日本の主な輸入品は、産業革命後のイギリスで工場生産された毛織物や綿織物でした。質の高い製品が大量に入ってきたことで、国内の織物生産者は売り先をなくし、困窮に追い込まれます。

その一方で、絹糸の輸出が急増し、国内で品薄になったことによってインフレが起きます。また、金の輸出も制限されていなかったため、他国よりも安価だった日本の金が海外に持ち出されてしまいました。

このように海外との貿易によって、日本経済が混乱を起こします。幕府は金の含有量が少ない万延小判を発行しますが、返って貨幣価値が下がって、インフレが加速していきました。

下級武士や庶民からは幕府への不満が高まり、また、外国人への不満も高まったことから「尊王攘夷運動」も活発化していきます。こうして、数年後の大政奉還へと少しずつ近づいていったのです。

アメリカが日本を植民地にしなかった理由

ペリーもハリスも日本との交渉を強気に進めてはいましたが、日本を植民地化したいとは考えていなかったことが、なんとなく分かるのではないでしょうか。

「日米和親条約」の後の5年間だけ見ても、日本では多くの天災が起きています。大地震が相次ぎ、江戸市内の水害も絶えなかったそうです。また、コレラの流行もありました。当時のアメリカにとっては、日本は中継地や貿易相手国としてのメリットはあっても、植民地として統治するにはデメリットの方が大きく見えたのかもしれません。

また、アメリカでは1861年から1865年にかけて南北戦争が勃発しています。自国が安定していない時期に他国の侵略をする余裕は、いくらアメリカといえども、なかったのではないでしょうか。

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